ヘボゲーマーかくれねこの活動メモ

だいだいXM(エチゾチック・マター)もとい某位置ゲーのせいで興味無かった筈のスマホ・タブレット向けゲームアプリのほんの一部に心を囚われてしまった毒吐き閑人。更新は不定期且つ気力の有るときのみなので悪しからず。

Ingress Sitrep:京都洛北静原行(だいたいナイアンと任天堂のせい)・前編

自分がゲームネタに興味を示すきっかけとなったNianticのコンテンツ『Ingress』であるが、運営と「エージェント」と呼ばれるそのユーザー(プレイヤー)をつなぐメインの場であったGoogle+がサービスを終了して後しばらく経ってから、Niantic自らが公式コミュニティサイトを用意した訳だが、『IngressPrime』へのアプリ一新が結果的に多くのユーザーの離脱を招いたこともあってそこに嘗てのGoogle+のIngressユーザー界隈のような勢いは無い。実際自分もGoogle+にIngress関連の投稿を色々書いていた頃に比べて進んで見に行くようなことはない。
だが自分のIngress案件の活動録ははてブロではなくそこに書いたほうがよいのかなと思って以下の記事をIngress公式コミュに投稿したのは今年の5月下旬のこと。それから4ヶ月程経ったが、やはりこちらにも転載しておくことにした。
community.ingress.com
以下、最近某フリーライターによるダメ過ぎな記事案件で改めて話題となっている所謂「おっさん構文」的な要素を兼ね備えてしまっている長文だが(まあこのブログの過去記事全部そうではあるのだがw)、タイトル変更と一部手直しをした上で前編・後編に分けてこちらに転載する事にした。このネタに付き合う気力のある方はどうぞご笑覧を。

京都洛北静原行・前編

昨年からのCOVID-19パンデミックの影響がまだまだ続く現在であるが、昨年とあるゲーム関連のネットメディア記事がきっかけで気になった件があってその確認に行く筈が、Nianticの位置情報ゲーム『Ingress』のユーザーによって作成されたゲーム内ミッションに京都洛北方面で過去に存在した金毘羅信仰に纏わるものが有ることを知り、それもクリアした件についてプレイ記録──Ingressユーザーの間ではアメリカ英語で状況報告を意味する「Sitrep」と呼ぶ──を書こうとするも正直面倒で放置していたのだが、今更ながらやはり書くことにした。
それに合わせて当時の移動中にその存在に気付いて疑問に思うも調べることが出来なかった構造物に関し、それが存在している地点に改めて「調査」の為に向かったので、その事についても書くことにする。

イントロダクション

きっかけはファミ通.comと4Gamerに掲載された、昨年行われたCEDEC2020における任天堂の『あつまれどうぶつの森』アート担当スタッフによるオンラインセッションの記事である。
s.famitsu.com
www.4gamer.net
ポケ森こと『どうぶつの森ポケットキャンプ』の配信開始から間もない時期、自分が所属している非公式Ingressユーザーコミュニティの一部の者がそれをプレイし始めるもアプリの出来に対する不満を言っていたのを見た上にTwitter上の反応でも結構顰蹙を買っていたのを見て、「コンシューマーゲームで遊ぶ」という事から長らく離れていた自分はかの任天堂が作ったiOS/Android向けアプリゲームの出来がどれだけ酷いのか話のネタにしようと思いポケ森をプレイし始めた結果、自分がIngressをプレイする原動力のひとつとなっていた「世の中に対する自らの怨嗟」を一瞬ボロボロにしてくれた「とたけけ」──皮肉にもそれは自分が過去に唯一夢中になった任天堂の作品に関わったコンポーザー案件でもある──という存在に対する負の感情も含めた複雑な思いとNianticや日本のIngressユーザーコミュニティへの失望もあって今や現行アプリの『IngressPrime』そっちのけでプレイし続けているという有り様に陥り、それ故どうぶつの森シリーズに関するゲームメディアの記事に目を通す事も多くなった。そういうわけで前述の記事を見た自分は記事に掲載された講演スライドのスクリーンショット画像の1枚に写っていた神社がどこであるのが大変気になり、

該当の神社は、

・関西圏の人里近くの針葉樹メインの山林の周縁で京阪神圏及び京阪奈圏から日帰り可能な場所にある

・境内の建造物は数段の石垣の上に存在し山林と反対側(写真では手前側)は草地である

・神楽を奉納する為と思われる舞殿(およびそれを兼ねた拝殿)が存在する

・舞殿におそらく神社の名前が記されていると思われる古い扁額が掲げられている

・鳥居の位置と舞殿の扁額の位置関係からして本殿正面方向に鳥居が建っていない

・敷地内にかなりの樹齢であると思われる針葉樹が数本存在しそのうち一本には注連縄が巻かれている

・あくまで直観ではあるが構造物の様子から創建年代は19世紀の明治維新以前で現存する社殿も長らく新築及び改築した様子がない

と推測、日本語圏のネット上に複数存在している神社関連のデータベースで該当する神社が無いか検索した所、京都・洛北は静原にある静原神社の可能性があると判断、その地点のGoogleストリートビューを探したところ当該地点の境内の画像が例のスライドに使われていた神社の画像に写っていたものとほぼ一致していたのである。
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Ingressエージェント的な物事の見方をするならば、『ポケモンGO』の発表以後任天堂の製品及び作品群もXMの恒常的かつ尋常ではない影響を受けている(というか今までずっと尋常ではないXMの影響を受けてきた)のではという解釈が出来る訳で、任天堂経営陣と近い関係にある内部のクリエイターに「エージェント」ことIngressユーザーが複数名存在している可能性を強く疑うようになった自分は当時この事を興味深く思い──その疑いは今年3月のNianticと任天堂からのピクミンアプリ配信予定のアナウンスでほぼ確信へと変わったが──、該当の場所は既にゲーム内のプレイ拠点として登録されている(設定上では人類に影響を与えてきた謎物質XMの湧出地点とされる)「ポータル」が存在しているだろうと世界各地のポータルが確認できるIngressIntelMapで確認すると、やはり「静原大明神」
https://intel.ingress.com/intel?ll=35.111468,135.789831&z=18&pll=35.111168,135.789823
として登録済みであった。
そこで時節柄文句を言われるのは百も承知で、本邦政府や自治体がこの期に及んでもなお都道府県間の移動制限要請しか出来ないのを良い事に、ひとりで「現地調査」を実施しようと思い立った。

因みに目的地である静原神社についてネットで調べると葵祭で知られる上賀茂神社及び下鴨神社と縁深く、かつては葵祭に欠かせない葵(フタバアオイ)の葉を調達していた神社であったそうで、また京都・洛北のトレイルルート上にある神社としても知られている模様である。そうであるならば上賀茂神社及び下鴨神社周辺を起点とした静原神社に向かうルートを通るゲーム内ミッションが有るのでは……と探していたところ、「下鴨神社 鳥居」ポータルhttps://intel.ingress.com/intel?ll=35.037667,135.772757&z=19&pll=35.037752,135.772762のある下鴨神社のニの鳥居を起点とし静原と大原の境に位置する金毘羅山にある琴平神社──山の中腹にある琴平新宮社と山上にある琴平神社奥宮の2ヶ所が存在するが、山上の琴平神社奥宮は「金毘羅権現神社」ポータルhttps://intel.ingress.com/intel?ll=35.120021,135.807985&z=16&pll=35.118202,135.808898として登録されている──への参詣客の道中安全を祈願して19世紀前半の幕末期に建てられた石灯籠を巡るIngressユーザーによる作成のゲーム内ミッション「金毘羅大権現の灯篭めぐり」https://intel.ingress.com/mission/b50dd93f153648b2acdf917fc86adfb6.1cの経由地点が当該地点の近くであると知り、折角なのでそれもクリアすることにした。

時間ロスだらけの下鴨神社~深泥池貴舩神社来訪

昨年(2020年)の9月15日、家族に同行して奈良市内を訪れる用事が終わった後、自分は「金毘羅大権現の灯篭めぐり」ミッションを開始すべく下鴨神社へ向かった。
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下鴨神社に到着したのは15時過ぎ。正直この時点で開始しても公共交通機関を利用した場合は当日中のクリアは無理と思うべきであったが、何とかなるだろうと思いミッションを開始してしまう。
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このミッションが下鴨神社の二の鳥居をスタート地点としているのは、主題である金毘羅山の琴平神社への参詣ルート沿いに建てられた石灯籠のひとつが下鴨神社境内にあるという内容の「NPO法人京都観光文化を考える会・都草」のサイトにあった会員の研究報告会の記事に書かれた話を元にしているからだろう。
www.miyakogusa.com
因みにこの話によると現在下鴨神社境内にあるその石灯籠は元々は下鴨神社の南にある葵橋の東詰に建てられていたらしく、静原側からの金毘羅山の琴平神社への参詣ルートの起点は本邦の怨霊伝説の主人公として名高い崇徳天皇(崇徳上皇崇徳院)所縁の神社である安井金比羅宮若しくはその北側にある崇徳天皇廟だった可能性があるそうだ。金毘羅信仰自体は明治維新後の本邦政府の神仏分離令によって祭神を毀損された神仏習合に基づく水神(海神)・山岳神信仰だが、崇徳天皇の怨霊伝説が金毘羅信仰と結びついたのは神仏習合が当然だった時代に配流中の崇徳上皇が讃岐の金刀比羅宮に祈願の為に籠ったという伝説が創られた故である。なおアプリ内画面やIngressIntelMapに表示された説明文によると金毘羅山に纏わる話として崇徳天皇の側室で彼の讃岐配流に同行し後に帰京した兵衛祐局がこの地に彼を祀ったとの事だが、金毘羅山はかつて江文山と呼ばれ山中に江文寺という神仏習合の寺院が存在したことも背景にあると思われる。因みに江文寺自体は衰退の末に19世紀後半の明治時代の神仏分離令に伴い江文神社となって今に至っている。
江戸時代の日本は有名な寺社への参詣が身分の低い層にまで広まった時代でもあり、参詣の為の金策確保と地域民の結束の強化を目的とした講と呼ばれるコミュニティまで登場した。金毘羅信仰の総本山である讃岐の金刀比羅宮への参詣旅行も金毘羅講と呼ばれる請を中心に当時の日本国内の各地域で頻繁に行われ、京都の洛中と静原の金毘羅山を繋ぐ参詣ルートの成立もその影響を受けたものなのかもしれない。

しかし崇徳天皇というと、保元物語の「皇を取って民とし民を皇となさん」という配流先の讃岐国(現・香川県)での怨嗟エピソードを含め死後に体制側主導による「祟り神」認定をもって名誉回復が行われたが故に創作物の格好のネタにされてきた君主であるが、前近代の歴代中国王朝の歴史書であればどんなに同情気味に評されても「暗愚の君」扱いされて終わりなのではと思うのは自分だけだろうか。
なお史実における崇徳天皇はその治世においては当初は3代前の天皇だった白河法皇が実権を握り、白河法皇亡き後は父にして先代天皇である鳥羽上皇が実権を握り、最終的には鳥羽上皇の意向によって退位に追いやられて上皇となるもその後の後継者問題も絡み院政期の上皇としては珍しく権力の座から遠ざけられた状況下に追いやられていた。それ故に彼は怨霊伝説の由来でもある保元の乱の当事者となり自滅に至るが、中華圏の影響で詩歌の創作スキルを重視した前近代の日本の支配者層において天皇・上皇という立場である上に和歌の創作に熱心だった事もあり、当時の支配者層内部における歌壇の中心人物の座を必然的に担ってもいた。彼が創ったとされる和歌のひとつ、

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

は後世にカルタのかたちで日本社会に広く流布した13世紀の鎌倉時代以降に編纂された和歌集・小倉百人一首に収録されており、落語の『崇徳院』はこの和歌に肖った者を巡るドタバタ劇を描く。彼の存在とその和歌を任天堂などが製造販売している百人一首カルタで知ったという方もいるのではなかろうか。なおこの和歌は、彼が退位後上皇に就いた後に彼の命令で編纂された『久安百首』に収録の、

ゆきなやみ 岩にせかるる 谷川の われても末に あはむとぞ思ふ

という彼の和歌を改作したものである。
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下鴨神社二の鳥居の傍に、神社参道の石灯籠とは外観の異なる常夜灯の文字が彫られた石灯籠が1基存在する。かつて葵橋東詰に建っていたという金毘羅灯籠のひとつがこれなのだろうか? 参拝がてら境内の立ち入り可能な場所も一応回ってみたが、今回のミッションで巡る他の金毘羅灯籠と外観を同じとする灯籠の存在がこれ以外にあるのかどうかまでは判らなかった。
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下鴨神社境内の拝殿前にある舞殿。自分がネット上の情報を頼りに静原神社を特定する手がかりのひとつとなったのが、この舞殿のような大規模な神社はおろか小規模かつ観光資源化していない神社でもあまり見られないであろう建造物の存在である。とは言うものの実は自分は日本仏教と神道の寺社建築にとりわけ詳しいと言う訳ではなく、今まで興味を示して来た物事に関する記憶がたまたま功を奏したまである。

自分が下鴨神社に来たのは実はこれが始めてなのだが、季節柄流れ出る汗と寄ってくる蚊が鬱陶しい状態での「調査」とミッションプレイスタートとなった。重度の花粉症でも無い故にCOVID-19パンデミック以前は風邪でもひくか埃まみれになるような事をやらない限りサージカルマスクをつける事などまず無く、パンデミック確定後もワクチンや治療薬が開発されて普及しない間は体調に関係無くてもマスク着用が対策のひとつとして効果があるという事が専門家の見識として固まるまでマスクを着けなかった程の自分なので、マスクの内側で止まらない汗も鬱陶しかったのだがパンデミックが続く間は仕方ない。そんな気分的に煩わしい状況であるにも関わらず参拝がてら境内のポータルキャプチャを始めてしまいミッション開始早々時間ロスをやらかしてしまう。

そして次の通過ポイントである深泥池貴舩神社https://intel.ingress.com/intel?ll=35.059351,135.766253&z=19&pll=35.059396,135.766227を目指すのだが、バスでの移動を目論んで北大路バスターミナルに向かうも乗るべきバスに間に合わず結局徒歩で移動する事にしたが、今来たこの道を戻るのも面倒と思い賀茂川西岸を北上した結果更なる時間ロスを招いてしまった。
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深泥池貴舩神社に到着したのは17時頃。この時点でミッションの一時中断の判断をし、この日はここで引き返す事に。
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深泥池貴舩神社の金毘羅灯籠。境内に入って直ぐ右側に建っている。横に同じタイプの石灯籠が建っているが、関連したものなのかどうかは判らなかった。
因みにこの深泥池貴舩神社だが、洛北・貴船にある貴船神社がやはり洛中から遠いという理由で当時の洛北方面への主要道路だった鞍馬街道が通る深泥池西側のこの地に創建された神社であるとの事。境内には京都名物のひとつのすぐき漬け発祥伝説のある摂社・秋葉神社があり、最近では節分の豆撒き発祥伝説を主張したりと小さいながらも中々ユニークな神道の信仰の地である。因みに貴船神社は江戸時代まで上賀茂神社の管理下に置かれ、それが元での両神社間の係争も起きていた。節分の豆撒き発祥伝説の「鬼が貴船神社と深泥池の畔を繋ぐ洞穴を通ってやって来た」という内容も両神社間の係争を背景とした上賀茂神社側の視点からの創作としか思えず、またすぐき漬け発祥伝説も「賀茂社の関係者が明治維新に伴う政府の神仏分離令により境内の仏教由来の事物を壊しに来た」というこの神社もかつては上賀茂神社の管理下に置かれていた事を示唆するような内容から始まっている。なお神社の前には鞍馬街道が通っているが住宅街を通る狭い道ということもあって自動車の通行があるので来訪の際は要注意である。

二軒茶屋バス停近くの石灯籠から静原神社へ

3日後の9月19日、中断した金毘羅灯籠ミッションの再開そしてクリアと静原神社での調査実施を果たすべく再び洛北へ向かった。
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この日のスタート地点は叡山電鉄二軒茶屋駅最寄りの京都バス二軒茶屋バス停南側にある金毘羅灯籠──現在「安全の灯籠(金毘羅灯籠)」ポータルhttps://intel.ingress.com/intel?ll=35.078029,135.764896&z=18&pll=35.077703,135.76432として登録済み──にした。ミッション自体の通過ポイントはこの先にある静市市原町の厳島神社の「市原 厳島神社」ポータルhttps://intel.ingress.com/intel?ll=35.08802,135.762201&z=19&pll=35.087993,135.761961なのだが、それはミッション説明文にもある通り、ミッション作成当時はまだこの石灯籠を含めた二軒茶屋駅前一帯におけるポータルの情報がNiantic側に登録されていなかったからという事情がある。従って金毘羅灯籠巡りとしてミッションプレイを再開するのであればこの灯籠のある場所が妥当であると考えたからだ。ここに到着したのは14時半前。本当はもう少し早く来るべきだったと思うが生活リズムが完全に夜型な今の自分の状況では中々難しい。
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灯籠の柱部分側面に建てられた年月が記されているが、自分には「文政二」と思われる3文字までしか判らなかった。文政という年号が使われたのは1818年から1831年までの13年間なので、文政2年(1819年)に建てられたという事なのだろうか。
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この金毘羅灯籠であるが、この辺りの区間ではかつての鞍馬街道を通る京都府道40号線との交差点に面した駐車場の片隅に存在し、府道40号線は乗用車やバスのみならず大型ダンプカーも頻繁に走る交通量が少ないとは言い難い道路で、また府道の向かい側には住宅兼商店があるので写真撮影の際は注意を要する。
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ここから第3の通過ポイントである静市市原の厳島神社には徒歩で向かう事にした。しかし府道40号線を北進する気が起きず近くに裏道がないか探すと、府道と叡山電鉄本線の間を流れる川沿いに遊歩道があるのを見つけてそれを通り、住宅街を抜けて小野小町終焉伝説所縁の小町寺こと如意山補陀落寺の南側で再び府道40号線に戻り、アプリ画面上にポータルとして示された補陀落寺をはじめとした府道沿いに残っている鞍馬街道の痕跡を経由するかのように通過ポイントに向かって北進した。
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市原の厳島神社に到着したのは15時を過ぎてからで、ここにはあまり用はないので手短に参拝して次の通過ポイントと今回の調査の目的地である静原神社に向かう為に近くのバス停で待とうとしたが、時間潰し目的で京都バスの市原バスターミナルまで歩くことに。実はここで叡山電鉄市原駅に向かう道でもある本来の鞍馬街道ルートの細い旧道に気付いていれば遠回りしなくても済んだのだが、静原・城山行きのバスにはなんとか間に合い乗車することが出来た。
市原から先は大原方面に向かう府道40号線に沿って静原まで移動する事になるのだが、Googleマップの空撮写真を見た限りでも道幅が狭い割に歩道が見当たらない場所があり、またこの区間も時間帯によっては大原方面との交通量が結構あり(ミッションクリア後の江文峠からの帰路でそれを思い知らされる事となった)、自動車・バイクを運転しての移動が可能な者あるいは自転車でもロードバイクを趣味にしている者以外は運行本数に限りのある路線バスでの移動が望ましい。かなり遠回りになるが鞍馬方面から往時の古道である薬王坂を通る京都洛北のトレイルルートを経由するか、市原から一旦京都市街に引き返した後バスで大原方面へ移動し往時の峠越えの古道である江文峠のトレイルルートを経由する(但し「金毘羅大権現の灯篭めぐり」ミッションは静原方面からのアクセスでなければクリア出来ない為このルートを使うと二度手間になる)という手段もあるが、トレッキングの知識と経験と体力が無ければリスクが大きい移動手段と思ったほうが良いだろう。

路線バスに乗って静原に到着したのは15時半過ぎだが、金毘羅灯籠巡りミッションの第4の通過ポイントはミッション作成時期の都合なのか「静原神社」ポータルhttps://intel.ingress.com/intel?ll=35.11014,135.781725&z=17&pll=35.108084,135.783724として登録されている静原神社摂社の天皇社である。その為天皇社の最寄りである京都バス静原御旅町バス停にて下車。この時の静原神社ポータルこと天皇社のポータルは自分が例のスライドの場所は静原神社なのではというツイートをした(そしてはてブのブコメに書いた)後にエンライテンド側のエージェントによってポータルキャプチャーされていた事をIngressIntelMapで確認済だったのだが、実際の静原神社の場所にある静原大明神ポータルとその周辺は誰もポータルキャプチャーしていない状況だったので、参拝とポータルハック及び強化とポータルスキャンをして天皇社を後にした。因みにこの天皇社については、静原神社の方も含めて現地に祭神について記してある看板等はこの時は見当たらなかったのであるが、静原神社の境内にある由来の看板に書かれた天武天皇の避難伝説と関係しているのか、京都市公式サイトの静原の里マップ(PDFファイル)には仲哀天皇天武天皇を祭神とするとの記載がある。
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静原神社に向かう途中、もうひとつの摂社である若宮神社へ。祭神が何か判らない上にまだNiantic側に位置情報が登録されていないので、祭神の手掛かりを見つけて位置情報申請を試みようとしたが、神社に向かう道が私道だからか道の入口に自動車が停められており近付けず断念した。

そして本調査の目的地、静原大明神ポータルこと静原神社に到着したのは16時頃。
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早速境内南側の道路上から例のスライド画像の「答え合わせ」目的の写真を撮る。そして調査の為に参拝。
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神社の由来を記す看板。この地での祭祀開始が和銅4年(711年)とする話が事実であれば8世紀前半から存在している事になる。
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舞殿か拝殿と思われた建造物はやはり舞殿であった。下鴨神社の境内にあるそれと比べればこじんまりとしたものではあるが、他にも舞殿と他の社殿との間に玉垣と門を設けて仕切っていたりと全体的に下鴨神社の社殿の造りと似ているところがある。但し主祭神イザナギ(伊弉諾)とニニギ(瓊瓊杵)であり、元々この神社が下鴨神社主祭神タマヨリヒメ(玉依姫)・カモタケツヌミ(賀茂建角身)や上賀茂神社主祭神カモワケイカヅチ(賀茂別雷)のような賀茂神信仰とは異なる信仰の神の祭祀の場であった事が伺える。
それもそうで境内の由来の看板の内容が事実であれば静原の地が下鴨神社の社領に置かれたのは16世紀の安土桃山時代以降ということになり、葵祭に使われる葵の葉の調達もおそらくそれ以降の話だったのではなかろうか。
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神社境内に隣接している公園から境内を撮ってみた。境内側の公園入口すぐのところに植えてある背の高いモミジの樹は紅葉の季節になるとさぞや美しいだろうが、緑の葉の時期のモミジも美しい。自宅から気軽に行けるモミジの名所は奈良公園なのだが、このモミジの樹もなかなかのものだ。
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モミジの樹の下から一の鳥居方向を撮る。一の鳥居は道路に面する形で立っており、例のスライドに写っていた鳥居はニの鳥居だったのである。そしてここの鳥居は一の鳥居・二の鳥居共に柱の前後に小さな柱がつく両部鳥居と呼ばれるタイプのものだ。
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もちろんポータルキャプチャーとポータルハックも行った。というかここでこれをやらなければ「調査」に来た意味が無い。ついでに小さいコントロールフィールドも作成した。そして今回の最大の目的である静原神社での調査を終えた自分は日没差し迫る中、同時進行の金毘羅灯籠巡りミッションの終点である江文峠へと向かった。

後編に続く。
kakureneko-memos.hatenablog.com